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2006.03.24
< 【日記帳から】村上春樹と安原顯 >
某月某日
朝、目がさめて、
やっぱり「文藝春秋」4月号の
村上春樹原稿
『ある編集者の生と死 〜安原顯氏のこと』は、
じつに巧みで読ませるけれど、
唾棄すべき最低の文章だと思うに至った。
皆さんも読んでみてください。
生原稿を売ることはいけないことだ、
という反論されにくい「常識」をたてに、
もう口がなくて反論できない
故人の仕事と人格を貶め、
今までのヤスケン(安原顯)による
村上春樹批判を
すべてチャラにしようとする試み。
じつに卑怯者。
あとだしジャンケン。
流出の事実関係は、
ヤスケンも(最初の)古本屋も故人になっていて、
真の意味では確認しようがないというのに。
ただ単に故人に「常識」がなくて、
俺が受け取った生原稿は俺のもの、
という認識でいただけかもしれない。
それは「常識がない」と責めればいいことで、
故人が生きているうちに責めることも
できたはずだった。
それをすれば生原稿の流出は
ある程度は防げたはず。
なにしろ村上春樹はこの国で
逆らう大手出版社がないほどの売れっ子なのだから。
それをしなかったのは村上春樹の怠慢だ。
(ほんとうに、そこまで生原稿が大切ならばの話だが)
「犯人」の死後、
このタイミングで「告発」することで、
私たち読者はヤスケンと村上春樹の、
意外なほど濃密な愛憎の歴史を知らされたけれど、
それは村上春樹側の歴史であって、
ヤスケンの側には別のものが見えていただろう。
ヤスケンの長所と短所を同時に語ることで
あたかも「フェア」であるかのような
印象を与えているけれども、
どこまでも片方の見方でしかなく、
繰り返すが故人には口がない。
文中、
「男らしさ」
という概念をつかって、
表裏をつかいわけ陰口を言う編集者たちを批判し、
ヤスケンを持ち上げるくだりがあるのだけれど、
生原稿を勝手に売り払う行為は、
「男らしさ」と地続きのものだと私は思う。
逆に、
故人が生きているうちは
お上品に沈黙を貫き、
今ごろになって、
絶対に勝てるような方法で
秘められた「歴史」を語る村上春樹の態度は、
「男らしさ」から最も遠いものだろう。
それは普通の陰口より、もっともっと「陰口」だ!
中央公論社との問題であることを
大部数を誇る「文藝春秋」に寄稿する、
そのことにも象徴されている。
自らに圧倒的権威があることに
引け目はないのか。
ヤスケンとの確執を、
(ヤスケンが単行本にした)
『桃仙人』のような小説に書いたのなら、
(そこまでの愛と苦しみをヤスケンに捧げるのなら)
私は村上春樹を見直しただろう。
50枚の過不足ない報告エッセイにして、
自分の側に正義があると信じて疑わない、
ああ、
あなたの文学はそこどまりだよ!
そもそも生原稿流出は
そこまで責められるべきことか。
「握りつぶした」原稿が流出するのは痛いだろうが、
それだって活字にはなったんでしょ?
だったら古本的価値が上がって、
「握りつぶした」原稿の載った雑誌が
高値で取り引きされていたりもするはずだし、
その流れで言うと生原稿が流出したことで
村上春樹は直接の「損害」は受けていないのだ。
金儲けをしている人がいるだけ。
あなたが真に批判すべきなのは、
生原稿を高値で売買する慣習がこの国にあること、
その「システム」自体ではないだろうか。
ここまで高値で取り引きされたら、
雑誌に寄稿して原稿料をもらうより
生原稿を古本屋に持っていったほうが
「ずっと商売になる」からおかしいという、
あなたの主張はカマトトだ。
生原稿は生原稿だから売れるのであり、
雑誌に載った原稿はのちに本になって
もっと多くのお金を生むでしょう?
漫画家の生原稿とは意味がちがう。
パソコン(ワープロ)で書いているという今、
村上春樹のプリントアウト原稿には
もうそんなに高値はつかないだろう。
なぜ友達だったヤスケンに
突然嫌われるようになったかはわからないと
あなたは言うが、
喧嘩状態になっていたのはたしかで、
そんなとき「敵」が
あなたの大切なものを台無しにする可能性くらいは
考えておくのが危機管理だと思う。
ヤスケンが中公の社員だった頃なら、
生原稿は「返せ」と言えた。
そのあとのことは、
ヤスケンと村上春樹の「関係」の問題である。
なにしろ故人は死期が近かったのだ。
もちろん道義的にだめなことだが、
道義的にだめなことを
死にながらやってしまう「自由」が人にはある。
それはだめなことだと批判するのも「自由」だが、
文学者として、
今回のやり方はあまりにも「つまらない」。
以上、
村上春樹を嫌いな枡野浩一が、
狂ったことを書いているとお思いでしょうが、
今回のことで私は、
「村上春樹を嫌いなのには理由があったのだ」
と確信できて、
とてもすがすがしい気分です。
そして「流出した生原稿」なら、
こういうふうに考えられるが、
「離婚後に会えなくなった子供」に関しては、
同じ理屈では考えられない、
ということが私の一番言いたいことです。
逆に言えば、
村上春樹にとっての生原稿が、
私にとっての子供くらい
大切なものであるというのなら、
ほんとうのほんとうに、
そうだとおっしゃるのなら、
やはり同情しますし、
ここまでの私の発言を撤回し、
心よりおわび申し上げます。
【追記】
村上春樹に関する記事、以下にまとめてあります。
http://masuno.de/blog/2009/05/28/post-69.php
2006 03 24 02:01 午前 | 固定リンク