« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »

2006.11.10

< 短歌の類似 >

七月の心臓としてアボカドの種がちいさなカップで光る (兵庫ユカ)


青春の心臓として一粒のカシスドロップ白地図に置く (野口あや子)


前者は歌葉新人賞の候補作より。
後者は短歌研究新人賞の受賞作より。

私が選者だったら、
口調が似ているという理由で、後者を落としますね。
でも「いい部屋みつかっ短歌」コンテストの
選考やってても、
同案多数って、すごくあるんですよ。

もはや話した言葉がそのまま宙に固まり、
検索すると出てくるような時代。
「新しい」言葉は、つくりにくくなると思うなあ。

つきあって日が浅いのでまだ君の傷つけ方がよくわからない

(枡野浩一『君の鳥は歌を歌える』角川文庫より)

向き合って君と食事をしておれどかなしみ方がよくわからない

(松村正直『やさしい鮫』ながらみ書房より)

この程度の似方なら、ざらにあるだろう。
わざと……かもしれない。
「本歌どり」というやつ。

傲慢だと思われてもいいが私は、
斉藤斎藤の歌を読んでいても、
「それはもう私が十年前に一度詠み、
同工異曲だから捨てた歌ですね……」
と思うことが時々ある。(むろん妄想です)

逆に自分の歌を読み返して、
「ああこれは構文が斉藤斎藤じゃん」
と思うこともある。

文語調になってるぶん印象がちがうし、
読者として愛読してるけれど
松木秀の歌とかも。

新鋭歌人の歌に自作との半端な類似を嗅ぎとると、
とても「複雑な気持ち」になる。
(「徹底して方法が同じで中身がちがう」場合は平気)

宇都宮敦の歌は「複雑な気持ち」を一度も感じない。
とても好き。

でも私だって
先人たちそっくりの歌を詠んできた。
俵万智も穂村弘も、
そんなこと一々感じてたら、きりがないんだろう。

口語短歌の歴史がまだ浅いから
小さな類似が気になってしまう。
たくさんの例を知れば知るほど、
「似てる作品なんてたくさんある」
ということに気づくから、
盗作だの剽窃だの、
軽々と言えなくなっていく。

以上、
いつかの朝日新聞夕刊を読んでいて、
おや? と思ったので書いた備忘録。

これから、
短歌や表現活動に関する記事を、
たまーに、
「かんたん短歌blog」で更新することにします。
どうぞよろしくお願いします。

2006 11 10 08:55 午後 | 固定リンク

2006.11.02

< 【特別寄稿】『結婚失格』書評(文=藤井良樹) >

結婚失格

 忙しい忙しい原稿書かなきゃ書かなきゃと思いながら、午前11時すぎに新宿に買い物に出掛け、スペイン製の革のコートを買ってしまった。
 早くんと甲斐さんが立ち上げた新しい会社の事務所開きが今日だったので、顔を出そうかなと思いつつ、結局足を運べなかった。TSUTAYAでザ・クロマニヨンズの新譜を視聴するも買わず、自宅に戻ったのが夕方前。前日から寝てなかったので、矢沢永吉のデビューアルバム『アイラブユー、OK』をBGMにして寝てしまう。そのまま寝続け、夜中に携帯電話が鳴ったけれど無視してまた寝た。1時間後くらいにようやく起きて、寝ぼけ眼で携帯画面を見たら、3通のメールと不在着信。
 《一瞬だけ本を届けにお邪魔してもよいですか。電車で帰ります。枡野浩一》
というメ−ルが0:05と0:26に送られ、0:43に、
 《ドアに本置いておきました。また今度ゆっくり。枡野浩一》
というメールが届いていた。ドアを開けると、ドアノブに青いビニール袋がぶらさがっていて、その中に淡い緑を基調とした表紙の『結婚失格』が入っていた。


 『結婚失格』(講談社)は枡野浩一の初の小説ということになるのだろか。「小説現代」に連載中は「書評小説」という形式だったという。
 私は枡野浩一に直接、「そんなのフツーの小説を書かせてもらえばいいのに」と余計な注進をしたことがあって、そうしたら彼は「いやいや違うんですよ藤井さん。書評連載の依頼があったのをボクの方から『書評小説にさせてください』ってお願いしたんですよ」と言った。や、逆かもしれない。小説の依頼があったのを書評小説にしてもらったのだったか。まぁどっちでもいい。
 とにかく、「小説現代」で連載をやるのに、「短歌連載」でも「小説連載」でも「書評連載」でもなく、「書評小説連載」を始めてしまうことが枡野浩一という人間をよく表している。その上、その内容ときたら、一見小説や書評を装いつつも実はほぼ自分自身の離婚ドキュメントなわけで、もうあまりに本性を表しすぎだ。

 この本にエッセイを特別寄稿している歌人の穂村弘氏は枡野浩一について、

 《御飯を前にして「いただきます」と叫ぶ子供をみて、びくっとする大人の気分だ》
 《御飯を前に大人がひとりで「いただきます」と真顔で云い続けることの「異様さ」が彼には理解できない》

と記しているが、さすがである。歌人という人種はかなりあなどれない。

 でも敢えて、この秀逸な穂村弘氏の枡野観に蛇足を付け加えさせてもらうならば、その「いただきます」と枡野が叫ぶ御飯とは、カフェ飯なのである。ひとり孤独に、こじゃれたカフェカウンターで喰う「カフェ飯」なのだ。決して、「家族団欒の晩御飯」ではない。
 そう考えると枡野の「いただきます」は「叶えられない祈り」であるようにも思える。毎日二食は食すというカフェ飯に向かって「いただきます」と枡野が絶叫するとき、枡野の耳には「いただきます」と復唱する妻子の幻聴が聞こえているのかもしれない。

 トルーマン・カポーティは、「叶わぬ祈りよりも叶えられた祈りの方が、より多くの涙をそそる」として『叶えられた祈り』という題名の、暴露的なスキャンダラスなノンフィクション・ノベルを書こうとしたが、書き切れずに死んでしまった。

 枡野浩一にとって、『結婚失格』は「叶わぬ祈り」なのか?
 それとも、より涙を流さなければならない、「叶えられた祈り」だったのか?

 ・・・・・実はまだ、私は『結婚失格』小説部分を読んでいない。だから、その答えはわからない。だけど読み始める前に、こう(心の中で)叫ぼうと思っている。

 「『結婚失格』いただきます!!」、と。

2006 11 02 10:40 午前 | 固定リンク

2006.11.01

< たずねびと >

駿河さくさん、
ここを見ていたら
枡野浩一までメールください。
ii@masuno.de
です。
どうぞよろしくお願いします。

2006 11 01 11:09 午後 | 固定リンク